山本精神分析オフィス

精神分析コラム

2019.12.12

5.投影・取り入れ・投影同一化-原始的防衛

原始的防衛

ここではもっとも原始的な防衛過程のうちの二つ、すなわち投影と取り入れをまとめてみる。 なぜならこれら二つは同じ心理的コインの表裏を表しているからである。 投影にせよ取り入れにせよ。そこでは、自己と外界との間の心的境界が欠けている。

正常な幼少期において、子どもがどの体験が自己の内部から生じていて、どの体験が自己の外側に原因があるのかを認識できるように発達するまでには、「私」と「世界」は同じであるという漠然とした感覚が存在すると想定される。腹痛に襲われている赤ん坊はおそらく「身体に中のどこが痛い」というのではなくただ「痛い!」という主観的な体験をしているのだろう。赤ん坊はまだ、腹痛のような自分の内部にある痛みと、おむつがきつすぎて苦しいというような外部から生じている不快とを、区別することが出来ないのである。後に防衛機能として投影と取り入れと呼ばれる処理過程は、この未分化な時期から始まる。これらの処理過程が一緒に働いているとき、一つの防衛とみなされ、投影同一化と呼ばれる。

投影とは、内界にあることを外界から生じたと謝って理解する過程である。投影とは、良性で成熟した形式においては、共感の基礎である。 誰も他人の心の内側に入り込むことなどできないので、だれか誰か他の人の主観的な世界を理解するためには自分自身の経験を投影する能力を使はなければならない。 直感や、非言語的共時性における飛躍や、他者や集団との神秘的な結合の至高体験には、他者への自己の投影が含まれていて、そこにはその両当事者に対する強力な情緒的報酬が伴っている。
よく知られていることだが、互いに愛し合っている人々は、自分では論理的に説明できない方法で互いの気持ちを読み取ることが出来るのである。

投影は、悪性の形式では危険な誤解のもととなり、甚大な人間関係上の傷つきを引き起こす。 投影された考え方が、投影を向けられている対象者をひどく歪曲している場合や、投影されていることが自分から切り離されたきわめて否定的な内容でできている場合、あらゆる種類の困難が続発することが予想される。誤解された他者は憤慨し、また例えば非難しているとか羨望を向けているとか迫害的だとみなされると、仕返しをするかもしれない。 これら三つの態度は、自己の内に於いては無視されやすく他者に帰属されがちな、最も広く見られる態度である。 ある人が外界を理解し生活に対処していく主要な方法として投影を用いているなら、その人はパラノイド性格といえる。

取り入れは外界にあることを内部から生じていると誤解する処理過程である。取り入れは、良性の形式では重要な人への原始的同一化になる。おさない子供は、生活の中で重要な人のあらゆる態度や感情や行動を取り入れる。この過程はあまりに巧妙で神秘的であるが、いったんそれを見たら見誤りようがない、ママあるいはパパのようになるんだと、子どもが主観的に自発的な決心をできるようになるそのはるか以前から、子どもはある原始的なやり方で親のことを吸収している。

取り入れは、投影と同じように、問題なる形式ではかなり破壊的な過程である。病理的な取入れの最もよく知られている顕著な例には攻撃者への同一化という過程がある。

よく知られているように、自然な状況での観察や実験研究の両方から、人々は恐怖や虐待という状況におかれると,その虐待者の特徴を取り入れることによって自分の恐怖や苦痛を抑えようとする。(自分は無力な被害者ではない、力があり苦痛を与えることが出来るのだ)といったことが無意識的にこの防衛に導いているのだろう。 このメカニズムを理解することが、心理療法の経過にとって決定的に重要である。 これはあらゆる診断の境界線をまたがって関係してくることだが、特にサディズム、爆発性、そしてしばしば誤解を招くが衝動性と呼ばれることの多い性質につながる性格学的素因に於いて明白である。

取り入れが精神病理をつくり出すまた別の局面には、喪失とこれにまつわる抑うつが含まれる。われわれが人を愛したり強い愛情を向けている場合、その人を取り入れる。 そしてその表象は我々の内界にあって我々のアイデンティティの一部となる(私は〇〇の息子だ)(〇〇の夫だ)。もし、われわれが内在化したイメージのもとの人物を、死別や離別したり、絶交されたりなどして失ったとしたら、自分の生活にその人がいないので生活環境がよりつまらなく感じられるだけでなく、自分がいくぶん衰弱し自己の一部が死んでしまったと感じる。 虚しさや空虚感が内界を支配するようになる。また、失った対象を諦めるのでなく、その存在を取り戻そうとする場合は、それらの対象が遠ざかっていったのは自分のどんな失敗や罪からなのかという問いに心を奪われるようになる。 通常は無意識的なこの過程が訴えているのは、もし自分の犯した過ちが理解出来たら、その人を取り戻せるという(幼児期の万能感のまた別の表現である)暗黙の願望である。喪が回避されると、こうした無意識の自己批判が起こる。

フロイトはこの喪の過程を、(対象の影が自我にかかる)と述べ、喪失状況にゆっくりと折り合いをつけることとして見事に描写している。長期にわたって取り入れられたイメージのもとである愛する人と、内的に分離できず、その結果他の人に気持ちを充当すること(悲嘆過程の作用)二失敗している場合、自分自身が卑小で価値がなく枯渇してすべてを失っていると感じられる。ある人が不安を緩和し自己の連続性を維持するのに、通常取り入れを利用し、以前の生活の中の対象との心理的絆を報いがないのに維持しているのなら、その人を性格学的には抑うつ的と考えるのが合理的である。

比較的重篤な障害の患者においては(投影同一化)と呼ばれる防衛過程がいたるところで見いだされることを記述した最初の分析家は、メラニー・クラインである。この投影と取り入れの機制の融合は、オクデンによって次のように説明されている。

投影同一化においては、患者は治療者にことを、患者の過去の対象関係によって決定される歪んだ方法で見るだけではない。これに加えて患者の無意識のファンタジーに合致するように、セラピストが自身を体験するように圧力がかけられる。

言い換えると、患者は内的対象を投影するとともに、その投影を向けられている人が、その対象のように振る舞うようにし向けられる。投影同一化は扱いにくい抽象概念である。 投影と取り入れのどちらも、連続的な形式をとり、非常に原始的なものから非常に発達を遂げたものにまでわたり、原始的な側の端では(内界と外界が同様に混乱しているために)これらの処理過程は融合的である。この融合こそが、投影同一化である。


この投影同一化の過程が、成熟した投影とはどのように違っているかを、インテーク面接<予診>に来談した二人の男性に想定した発言を対比して検討してみよう。

患者Ⓐ(いくぶんすまなさそうに)先生が私に対して口やかましいと信じる根拠はないと分かっているんですが、そう思わずにいられないんです。

患者Ⓑ(いつもの調子で)あんたたち心理屋なんてものはみな、ただ座って人を判断しているだけだ。あんたが何を考えようが、知ったことじゃない。

次にように想定してみよう。実際には、セラピストはどちらのクライエントにもきわめて友好的で、関心をもちつづけ、批判的でない態度で面接を始めていた。二人の男性を悩ませている内容は同じである。つまり二人ともセラピストがとげとげしく値踏みするような態度をとるのではないかと心配している。両者は内在化された批判的な対象を、セラピストに投影している。しかし、それぞれのコミュニケーションは三つの点でかなり違いがある。

第一に、患者Ⓐは観察自我、つまり自分のもつファンタジーが必ずしも現実に即しているとは限らないと理解できる自己の部分が、存在する証拠を示している。つまりこの事例においては投影は自我違和的である。一方、一方患者Ⓑは、投影されている内容はセラピストの心の状態を正確にとらえているのだと感じている。つまり彼の投影は自我親和的である。実際、彼はその帰属させた性質が現実のものだと完全に信じ込んでいるので、セラピストがきっと非難しょうともくろんでいると確信して、その非難に対する反撃をすでに浴びせているのである。原始的処理過程に典型的な、体験の認知的、情緒的、行動的な融合がここでは明らかに認められる。

第二に、これらに患者では、投影の処理過程がその仕事をうまくやり遂げている度合いに違いがある。つまり、この投影という防衛が、それが必要となった仕事、すなわちやっかいな感情を厄介払いすることをどのくらいうまく成し遂げているかに違いがある。患者Ⓐは、批判的態度を表出し、それについていて話し、いくぶんほっとした。一方患者Ⓑは批判的態度を投影して、しかもその態度を保ち続けた。彼は批判的態度を他の人のせいにしたが、それでも自分自身の難癖をつけるような気持ちは軽減されなかった。カーンバーグは、こうした投影同一化の側面を、投影されているものへの(持続的共感)と言っている。

最後に、二人の患者のコミュニケーションにはきわめて異なった情動的影響がある。セラピストが患者Ⓐのことを好ましく思うのは容易であろう。そして、速やかに作業同盟を結べるだろう。だが患者Ⓑに対しては、患者がすでに確信しているまさにその通りの人物のような気持ちになり始める。冷淡で、上から判断しがちで、この男性を見ていくのに必要な多大なエネルギーを注ぐのを嫌がるようになるのである。言い換えると、患者Ⓐに対するセラピストの逆転移は肯定的で穏やかなものだが一方Ⓑに対する逆転移は否定的で激しいものである。投影同一化の(自己成熟的予言)の性質について、現実を知覚するのにとても原始的な方法を用いるような、精神病一歩手前の障害を抱えている人の当然の帰結だといえるのでは。


現実とのつながりを保つことに多大なエネルギーを使っている女性が、ほかの人が持っていると彼女が確信している感情を、誰かに引き起こすことが出来たなら、彼女は自分が気が狂いそうだとさほど感じなくてすむだろう。はっきりと精神病的な女性ならば自分の投影が(合致している)かどうかについて気にかけないであろう。またそれゆえ他者に、その投影が妥当であり、したがって彼女は正気であると認めさせるような圧力もかけないはずである。投影同一化はとりわけ強力で挑発的な操作であり、セラピストの援助する能力に負担をかける。患者がセラピストの中にある感覚を誘発しょうと情け容赦なく奮闘し、これによってセラピストは(実際に)かくのごとく感じてはずだ、という患者の確信にセラピストがからみとられつと、感情的な集中攻撃に持ちこたえるには、明晰な頭脳と鋼のようなしっかりした鍛錬が必要である。

さらに、われわれみなが人間であるという苦境を分かち合っており、それゆえわれわれの中には、投影されたあらゆる様々な感情、防衛、そして態度がすでに存在するので、投影同一化をする人のもつ信念には、常にいくぶんかの真実が存在する。臨床的局面の真っ最中に、どこまでが患者の防衛によるもので、どこからが治療者の心理なのかをはっきり理解しょうとするのはかなり混乱を招くことがある。この防衛には、治療者のもつ自分自身の精神健康に対する自信を脅かす力があるということは、この投影同一化が、スプリッティングとともに、ボーダーライン・パーソナリテイ構造と関連している。投影的要素が強力なので、ボーダーライン水準のパラノイド・パーソナリティと関連している。

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