山本精神分析オフィス

精神分析コラム

2019.12.12

4.原始的理想化(と価値下げ)-原始的防衛

原始的防衛

フェレンツィは、自己が万能であるという原始的なファンタジーが、どのようにして徐々に自分の養育者が万能であるという原始的ファンタジーに置き換わっていくかについて定式化したが、この定式化は今なお精神分析的臨床理論にとって重要である人は誰でも、幼い子供が、自分のママやパパが生活のあらゆる危険から自分を守ってくれるということを信じる必要性がいかに強いものであるかを理解できるだろう。 われわれは歳をとるにつれて忘れてしまうが、実際の敵意や、病気や災害に対する傷つきやすさや、人の死やその他の恐怖に対して初めて直面することは大変恐ろしいことなのである。 子どもがこれらの手におえないほどの恐怖から自分を守るひとつの方法は、誰か、ある全能的なよい権威者が面倒を見てくれると信じることである。 (実際、世界を動かしている人々は、誤り犯しがちな普通の人よりも、ともかく生来的に賢く強靭であると信じようとするこの願望は、われわれのほとんどにまだ残っている そして、こうした構図はしょせん願望にすぎないと思い知らされるような出来事に出会った時に、どれくらい動揺するかによってその願望の強さ推し量ることが出来る。

幼い子供が自分の母親や父親なら超人的な振る舞いでも完璧にできると信じ込むのは、おやであることの多大な恩であり、また災いである。それはかすり傷の手当てをするときには議論の余地のない利点であり、子どもの愛情のこもった完全な信頼ほどいじらしいものはない。しかし他方、親にとってほとんど手に負えない憤慨をもたらしもする。
このことで私が思い出すのは、私の娘が二歳半のころの出来事である。娘が泳ぎに行けるように、雨が降っているのを止めることなど私にはできないと説明したら、娘は最大級の癇癪を爆発させたのだった。

われわれは例外なく理想化を行う。情緒的に依存している人々に特別な価値や力を付与したいという欲求の名残りを持ち続けている。 正常な理想化は成熟した愛情の必須の要素である。幼児期に愛情を向けていた人々を理想化し高く評価していたのを時がたつにつれてやめていくわれわれの発達的傾向は、分離個体化の正常で重要な要素である。 18歳の若者が、自分の家は、今自分が向かおうとしているところよりもずっと良いところだと思いながら、自発的に家から出立することなどないのである。
しかしある人々の場合、理想化に欲求は乳幼児期から比較的に修正されぬままであるようだ。 こうした人々の行動が示しているのは、内的な恐怖を打ち消すための必死といえる努力が残っている証拠である。 この打ち消しは、愛着を向けている人が全知全能で常に好意的であり、自分は、このすばらしい人物と心理的に融合していて安全であるという確信によってなされる。

また彼らは恥を免れることを望んでいる。つまり、理想化とこれに付属する完璧さへの信頼の副産物として、自己の不完全さが耐えがたくなるので、そこから救われるには理想化されている対象との融合が必要となる。万能的な養育者へのあこがれは、人々の抱く宗教的な確信におのずとあらわれる。より問題となるが、それらは次のような主張においても明白である。

自分の恋人は完璧である、自分の師は絶対に誤まらない、自分の学派や出身校は最善である、などという錯覚である。一般に人は、実際に依存的であるか依存していると感じていればいるほど、理想化しょうとする気持ちが強くなる。数多くの女性が妊娠中、個人的な弱さに直面するときによく言う言葉に、自分の産科医は「最高よ」とか「この分野の第一人者なのよ」と。  ある人が、人間に状況のあらゆる面を、他の欠点のある選択肢と比べてどれくらい価値があるのか格付けしょうとしつつ生活を送っている場合、そして理想化された対象と一体化しょうとし、また自己を完全なものにしょうと努め、完全さを追い求めることに強く動機づけられているような場合、一般にその人を自己愛的だと見なす。

自己愛的な人々のその他のよく知られている面は、この理想化の防衛を利用した結果として起こるものと理解できる。自分のもつ魅力や力、名声、重要性を絶え間なく他者(例えば完璧な人)に保証してもらおうとする欲求は、この理想化の防衛に依存している状態から生じる。理想化をめぐって組織化されている人々の自尊心を保つための奮闘は、自己を愛するためには、自己を受け入れるのではなく、自己を完璧にしなければならないという考え方に影響されているからである。

原始的な価値下げは、理想化の欲求の避けられない裏面にすぎない。人間の生活において完璧なものなど何も存在しないので、理想化の原初的なかたちは失望に至らざるを得ない。対象が理想化されていればいるほど、その対象は結局激しい価値下げを被ることになる。つまり、抱いている錯覚が大きければおおきほど、その転落も激しいのである。患者が自分のセラピストは水の上でも歩けると思っていたのに、歩きながらガムを噛むことすらできない能無しだと考えをひるがえしたときにどんな障害がおこるか、自己愛的な人々に取り組んでいるセラピストなら、ほぞを噛む思いで証言できるであろう。

よく知られているように、自己愛的クライエントの治療関係は、患者のセラピストへの幻想が打ち砕かれた時突然崩壊しがちである。完全な理想化の対象になることは逆転移の中ではたいへん心地よいけれども、実はやっかいなことなのである。理想化された役割にいるとイライラすることもあるからである。また玉座におかれて尊敬されることはそこから叩き落される前駆段階にすぎないことを、ほとんどのセラピストが苦労して学ぶことになるからである。あるセラピストは、全面的に理想化されることは拘束衣のようだと言っている。それは、セラピストに自分の無知を否認させ、援助の控えめな目標を耐えがたく思わせ、自分の唯一の最善の行為は「模範」であることだと考えさせるからである。

日常生活の中でも、この過程に似たことがみられる。あることを十分にやれるはずだと見込んでいた人がそれを実現できなかった場合、その人に対してこうした嫌悪や憤怒が向けられる。自分の妻を担当している腫瘍科医が妻の病気を治せる唯一のがん専門家だと信じ込んでいる男性は、結局治療のかいなく妻がなくなった場合、訴訟を起こす可能性がもっとも高いのである。ある親密な関係から次の親密な関係へ次々移りつつ生活を送っている人もいる。理想化と幻滅のサイクルを繰り返し、相手が一人の人間にすぎないと分かるたびに、新たな理想の人を求めて現在のパートナーを交代させる。原始的理想化を変容させることは長期の精神分析的心理療法の正当な目標である。しかしこの仕事はとりわけ自己愛的なクライエントを対象にするさいに特に大切になる。自己愛的な人々や自己愛的な人々を愛そうとする人々の人生には、こうした不幸が多いからである。

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