山本精神分析オフィス

精神分析コラム

2019.10.03

2.否認-原始的防衛

原始的防衛

乳幼児が不快な体験を扱うもう1つの方法は、その体験があったと認めるのを拒絶することである。否認は、何らかの破局的事態に対して、我々すべてが自動的に最初に示す反応として残っている。大切な人の死を知らされた人々は、その最初の反応として、「まさか」と言う言葉を必ず言うはずである。この反応は、子どもの自己中心性に根差した原始的処理法の名残りである。この処理おいては「もし私がそのことを知らなかったならば、それは起きていないのだ」という前論理的確信が体験を支配している。このような処理法の存在が、乳幼児期に防衛として存在する。

否認が基本的な防衛となっている人々はポリアンナ的な人である。たいていの人々が何らかの否定的な側面にきづく状況で、歓喜や圧倒されるような陽気さに満ちた体験が生じる場合は、否認という操作を反映していると思われる。われわれはたいてい、ある程度否認を使う。それには人生の不快さを減らすという相応の目的がある。そして多くの人々は特定の領域では否認の防衛を優先的に使っている。危機あるいは緊急時に自分の生命が危険にさらされていることを情緒的に否認する能力があると、それが生命を救うこともある。

否認を用いて、最も現実的に有効で英雄的な行動をとれる人もいる。あらゆる戦争では、生命が危険にさらされる恐ろしい状況で、「冷静さを失わない」人々の伝説が生まれている。そうした人々は、自分自身のみならず仲間をも救うのである。

好ましくないことに、否認が正反対の結果を引き起こすことがある。毎年行われるがん検診を受けることを拒んでいた。あたかもがんの可能性を無視することで、その可能性を魔術的に回避できるかのようであった。暴力をふるう配偶者に危険さを否認する人々や、飲酒の問題などないと主張するアルコール依存の人々、明かにその能力がないのに運転免許を放棄しない高齢者、これらはみな否認の最悪の例である。

否認の要素は、その他のより成熟的防衛のほとんどにおいて見出だされる。ある人に拒絶されたけれど、その人は本当は自分のことを好きだったのにまだきちんと付き合う気持ちの準備が出来ていなかったのだ、とするような自分を慰める信念がある。このような結論には、拒絶されたという現実の否認だけでなく、合理化と呼ばれる手の込んだ言い訳が含まれている。また、反動形成の防衛においては、ある情動は反対の方向へ向けられるのだが(例えば憎悪が友愛へ)、この防衛も合理化と同様に、ある情動を感じていることを単に拒絶するというよりも、防衛された感情を特異で複雑な仕方で否認することから成り立っている。

否認の使用によって定義される最も明白な精神病理に、躁がある。躁状態にある人々は驚くほどの否認をする。それは生理的限界や、睡眠の必要性、経済状況、個人的弱点、そして時には寿命さえもである。鬱的な人はその鬱のために生活に伴う苦痛な事実を絶対に見過ごせなくなっているが、躁の場合は、同じことを心理的にとるに足りないことにしてしまう主要な防衛として否認を用いる人々は、性格的には躁であると言え、精神分析的な方向付けを持っている臨床家には軽躁〈ヒポマニック〉と呼ばれる(ヒポという接頭辞は「わずか」とか「少し」を意味し、完全な躁エピソードを示している人とは区別される)。「気分循環症」と言う言葉(情動が交互することを意味する)もまた、この種の人々に対して用いられている。

このカテゴリーの人々は通常、双極性疾患と臨床的に診断できるほどではないものの、躁気分とうつ気分の間を循環する傾向がみられるからである。精神分析では往復を、否認の使用とこれに引き続く必然的な虚脱状態の繰り返しと理解している。躁状態にある人は消耗してしまうのである。たいていの原始的な防衛と同じように、成人が否認を修正せぬまま用いているなら、通常心配すべきである。それにもかかわらず、おだやかな軽躁である人々は魅力的である。コメディアンや芸能人の多くは機知に富み、活力があふれ、言葉遊びが好きで、他の人にも伝わるほどの上機嫌さを持っている。こうした特徴を持つ人々は、長期にわたって苦痛な感情をうまく閉め出して転換させている。それでも、こうした人々のうつ的な裏面は、親しい友人にはしばしば見えているもので、躁的魅力によって支払われる心理的代価が容易に想像できることもまた多いのである。

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