山本精神分析オフィス

精神分析コラム

2013.08.03

ウォールタ・ボニームの夢分析から

夢分析

1

患者が精神分析を受けにやってくる時には、何らかの意味で対人関係が破綻したと感じているものである。 それにもかかわらず、それまでの人間関係で失敗したあらゆる方法を用いて、患者は治療状況を自分の都合のいいように操作しょうとするのである。 患者はこの病理を生活状況のあらゆる面にわたって示すものだが、〈抵抗〉という用語は、特に治療状況における患者の対人的葛藤に対して用いられる。 患者は抵抗を巧妙に操ることによって、不安の源を覆い隠そうとし、神経症的な心の構造を明らかにするよりもむしろ維持しょうとし、病理的な願望の解決に取り組もうとするよりもむしろそれを満たそうとするものである。 このような意味で、抵抗を克服することは治療の過程そのものなのである。

2

今日、一般に見られる競争主義的な態度は、常に病理的な面を示しているばかりでなく、同時に競争主義それ自体を含むあらゆる病理的な働きを気づき難くするようにも働いている。 このため、競争主義は治療活動の中でも、その取扱いがとりわけ難しいものである。 というのは、競争主義はあらゆる抵抗を強化するからである。
競争主義とシニカルな態度の相互関係について要約すると、競争主義やシニシズムというのは、親子関係にその端を発しており、他人を利用し、自分の利益のために人とかかわろうとすることであり、しかも愛や友情やなぐさめを装ってこうしたことをやろうとすることである。
またそれと同時に、自分に降りかかってくるあらゆる影響から、たとえそれが明らかに私利私欲から出たものであろうと、本当に心から気遣われたものであろうと、そういったことにはおかまいなしに身をかわそうとする傾向であると考えられた。
このように、影響を受けることからは身をかわしながら他人に影響を及ぼすことが続くと、患者の競争主義やシニシズムが表面化するだけでなく、この傾向を助長し、強化し、正当化するようになりやすい。

3

分析治療の中で、抵抗行動としての競争主義的でシニカルな要素は、自分に示されている分析家の心からの関心を疑ったり、分析家からの影響をかわすために努力し、策を弄したり、さらにひどい場合には、分析家をやりこめたり、文句を言ったり役立たずにしてしまうことに示されている。
これらのあらゆる要因が分析の抵抗に示されている。
抵抗とは、患者の苦痛に満ちた生き方に気づかせ、理解させ、変化させようとする治療者の努力に対抗して、現在の対人関係のもち方を維持しようとする、患者の側のあらゆる努力を意味している。 その対人関係は、競争主義的で、他人を操り、シニカルな根をもち、孤立的で、みじめなものだが、それと同時に患者にとっては慣れ親しんでいるものであり、安心できるものなのである。 抵抗は患者が分析家と深くかかわりあうようになってゆく過程の中で克服されてゆく。 つまり、分析家に対する信頼を深め、内面の歪みを露わにしてゆく努力をしてゆく中で、これまで自分を特徴づける基準となってきた行動や考え方を変えようとするのである。
このようにして患者は、精神分析という共同作業に深くかかわってゆくようになる。 それは新鮮で、友好的ではあるが不慣れなものであり、恐ろしい体験でもある。

4

いくらかの抵抗というものは、分析治療を受けている間中、終始存在しているものである。 それは治療の進展が見られないときでも、ゆっくりの時も、目覚ましい時も、いついかなる時にも存在しているのである。

抵抗が生まれたり強められたりするさいに共通してみられる問題の1つは、満たされなかった幼児期に対する渇望である。
患者の多くの場合このことに気づいていない。 けれども飽くことなく腹を立てながら、執拗に、しかも執念深くこうしたものを追い求めている。
多くの患者たちは、発達の初期段階において、その時期にふさわしくかつ必要とされるものを与えられてこなかったそうしたことには、幼少期に求めて得られるべき愛情や、いつわりのない優しさや、要求を汲み取ってもらうといったことなどがある。 このために、大人のなってからも欠乏感に苦しみ続けている。患者が自分の望んでいる反応を、両親からいまだに引き出そうとし続けていることはよく見られることである。

ところが、両親はこれらの気持ちに応えないばかりか、逆に親孝行をするように親自身の要求を押しつけるのである。 このような関係は、お互いの緊張感を強め、非難や、不平不満、敵意、さらにはお互いを食い物にしたり、恨みを晴らそうとしたり、誘惑したりする行動を生み出す。 ここには親としての愛情はまったく見られない。

このような患者たちは、過去に得られなかった親からの愛情を、夫や妻、友人、分析家などに求めようとする。 ところが、次のようなことには気づいていないのである。 それは、幼少期はすでに過ぎ去り、当時必要であり、また求めてやまなかったものは決して満たされえないこと。 両親から得られなかった配慮は「こげつき」として帳消しにしなければならないこと。 そして、もはや子供ではないので、保護したり責任をとってくれる親、もしくはそれに代わるような人間は決して現れないということである。 このような患者は、要求に固執しがちで、要求に応じてくれない人に次第に腹を立て、一人前の大人として生活することを頑固に拒んだりする。

こうなると当然のこととして、大人であれば味わえる満足の逸してしまう。 この悪循環が繰り返されるにつれ、患者の苦しみは大きくなってくる。
なぜなら、幼児期の願望が満たされないばかりか、大人になってからも同様の体験が重なるために、人生の負債額は一層ふくらむからである。
そして、次第に並みのことでは安心できなくなり、大きな満足を得られる機会に出会っても安心できなくなる。 というのは、巨額になってしまった人生の負債に比べると、いかなる満足も少なすぎて受け取る気になれないからである。

5

分析治療は、このような患者の要求、つまり自分の幸福の責任を他人に負わせるという幼児期のみに許された輝かしい特権をあくまでも要求することは、まったく相いれないものである。
幼児期において自分が固有の価値をもつと感じるかどうかは、両親の愛情いかんにかかっている。
しかし、大人になって愛されているかどうかを確かめるために、以前と同じ基準、つまり、達成される見込みのない時代錯誤的な基準に固執していると、人に受け入れられていると感じられなくなってしまう。
それにこうした人達はやかましく要求し、満足することがなく、不平不満が多く、また意地悪く振舞いやすいので、愛情のこもった反応が得られない状態が持続することになりやすい。
この悪環境の中で、彼らの恨みつらみはつのるばかりか、これに人間としての無価値感が加わってくるのである。

6

この種の患者にとって自分自身の幸福は自分自身の責任で得ていくという分析治療の方針は、自分は愛され得る人間ではないのではないかという危惧を抱かされるのである。
そればかりでなく、意地悪く仕返しすることで味わっている病理的な有能感も奪ってしまうのである。
だから患者はいつわりの統合感をとりどころにして、あくまでも要求に固執し、幸福をつかむ努力を拒む。そして患者が大人としての生活を満喫できるようにと援助しょうとしている人の努力に対して、恩を仇で返すように徒労に終わらせるのである。
こう言ったことが、抵抗における心理的力動的な要因についての概観である。

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